東神楽町の歴史

2024年1月25日
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東神楽町の歴史


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神楽村の誕生

江戸時代、『蝦夷地』と呼ばれていた北海道は、明治2年から開拓使が置かれ政府による北海道開発が積極的に進められました。数多くの調査団が上川地方に入り、岩村通俊や永山武四郎らは現在の東神楽町の付近一帯に『上川離宮予定地』の設置を計画し、天皇の領地である御料地としました。結果的には『上川離宮』は設置されることはありませんでしたが、明治23年には、上川管内初の町村である神居、旭川、永山の3村が置かれ、その後、上川原野の開発が進むにつれて移住者が増加し、明治25年に神楽村が誕生しました。

明治27年7月、神楽村の3地区の1つで当時忠別農区と称されていた東御料地の貸し下げがおこなわれると、四国や広島、富山などからやってきた人々によって原始林の開拓が始まりました。しかし、密林、草原、笹原が続く広大な土地を開拓することは容易なことではなく、大木を切り倒しては燃やし、畑を作って麦や大豆などの穀物を植えながら粗末な家でつつましい生活を送っていました。月日がたつにつれ畑も豊かな実りをつけるようになり、神楽村の土地のほとんどは作物が育ちすぎるほど肥よくになり、そばなどを植えてわざと地力を落としてから利用するほどでした。

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稲作の始まり

開拓当初は畑作だけがおこなわれていた東御料地でしたが、明治29年には三井又三郎が約2反歩の水田を作り、2石4斗の収穫をあげ、米は育たないといわれていた上川地方に新たな可能性が生まれ、それ以来、多くの人々が小川や谷地を利用して試作を始めるようになりました。明治35年には東御料地第一水利組合が設置され、初のかんがい水路が完成しました。しかし、その後は大水害と冷害に見舞われ、神楽村に増え始めた水田は再び畑に戻されてしまいました。その後日露戦争によって価格が高騰していた麦や豆などの穀物を育て収穫を得ていましたが、肥沃だった土地もいつしか衰え、収穫量にも陰りが見え始めてきました。

こうした中で、当時の神楽村神居村組合村長であった安芸兵蔵が水稲耕作の有利性を説き、明治41年には東御料地土功組合が設立されました。翌年からかんがい施設の工事に着工し、3年後の明治45年、工費6万5000円をかけた大規模なかんがい施設が完成しました。以来、畑作から稲作に転換する人々が急増し、低台地は造田が進み、神楽村の水田耕作はいよいよ本格的に軌道に乗り始めました。

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村がゆれた小作争議と造田

大正時代に入ると水田耕作も神楽村にすっかり定着し、中央の丘陵地帯をはさんで東西に青々とした水田が広がり、黄金色の実りをつけ始めるようになると人々の生活もようやく安定し始めました。神楽村の御料地はもともと宮内省から借地人に貸し下げられていたものでしたが、農村が成長するにつれて、土地をさらに小作人に貸し付ける借地人が現れ始めました。大正8年に宮内次官が来村すると、この小作問題が浮き上がり、土地に関する耕作者の権利は何もないことが明らかにされました。以来、農民たちの不満が募り、これが借地権の獲得をめぐっての大争議に発展。4年にわたって再三協議した結果、大正12年に両者妥協のうえでこの大争議も一応の終末を迎えました。

大正15年、御料当局から聖台高台地帯が払い下げられましたが、この土地は水に恵まれず、地味は重粘土でやせており、畑地としての利用は不可能という状態でした。しかし、昭和5年には関係者の努力が実を結び、聖台土功組合が発足しました。貯水池から水を引き、全地区に造田をおこなうという一大土木工事が展開されました。貯水地工事が着工したのは昭和7年で5年の歳月をかけた昭和12年に貯水池と幹線水路が完成し、神楽村の中央部に1000町あまりに及ぶ美田が造成されました。この工事の完成は神楽村の新たな時代の到来を告げる画期的な出来事であり、村人にとっても感慨はひとしおでした。

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戦時中の分村

昭和16年、日本が太平洋戦争に突入し、長く暗い時代がはじまりました。戦局がしだいに厳しくなるにしたがって、食料生産が至上命令となり、男手のなくなった農村では、老人と婦女子が田畑を支えました。また、村外からも大学生や中等学生などの援農学徒が送り込まれ、児童生徒までもが農作業に借り出されるありさまでした。このような混迷する戦局とは別に、神楽村では高台地の開発によって人口の増加も著しく、昭和17年には1万6485人となり、農耕地も1万町歩に達するまでに成長していました。

当時、神楽村の行政機関は神楽町に置かれており、東神楽地区の住民にとっては、役場へ行くのにも一度旭川と経由しなければならないという不便さを余儀なくされていたほか、千代ヶ岡、八千代ヶ岡地域の開発が進むにつれて東神楽地区の人口も急速に増え、税の負担も村全体の半分を納入するという実績をあげてきました。こうした状況の中で分村への機運も高まり、村民の熱意によって昭和18年3月に道庁から正式に東神楽町の分村が告示されました。開拓のすきくわが下ろされてから、まさに50年目のことでした。

昭和18年4月1日は、東神楽村が誕生した記念すべき日。太平洋戦争の真っただ中という暗い時代ではありましたが、村人にとっては将来に望みを託す明るい出来事でした。仮庁舎は東神楽第二国民学校の裏校舎の一部があてられ、翌日から物資配給統制業務や兵事事務、援農事務などを重点的に吏員が配置され、業務を開始しました。その年の5月には初代村会議員18名が選出され、6月には村長として、当時神居村長を務めていた前田利済が招かれ、新庁舎の建設が決定しました。新庁舎は、旭川警察署旧庁舎を譲り受け、これを移築しました。資材の運搬は村人総出でおこなわれましたが、新しい村づくりにだれもが情熱を燃やしている時代であったため、不平を言うものはだれ一人としていませんでした。物資も人手も不足している悪条件の中ではありましたが、同年12月末には新庁舎の移転が実現しました。

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忠別川の大洪水

昭和20年8月15日、日本は『ポツダム宣言』を受諾し、多くの犠牲を払った太平洋戦争が終結しました。国の行政は連合軍の統制下に置かれ、次々と政府に指令が発せられました。その中でも、政府が昭和21年におこなわれた農地改革によって、東神楽村の小作者はほとんどが自作農になりました。戦後の混乱がまだ覆っていた昭和22年、豪雨によって忠別川が大洪水を起こしました。

それまでも何度か洪水を起こしてはいましたが、このときばかりは、急激に増水した各河川によってあちらこちらの堤防が次々と決壊し、濁流がいたるところを襲いました。特に忠別川では関係者の必死の防備をあざ笑うかのように堤防が一斉に決壊し、沃野は一瞬にして泥海と化しました。すぐに消防団をはじめ村民一丸となって対策にあたりましたが、不眠不休の努力もかかわらず忠別川の流入を食い止めたのは実に1週間後のことでした。

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開基60年に沸く人々

開基60年を迎えた昭和28年。分村から10年目を迎えるこの年には、村章と村歌が制定され、8月31日の記念式典は東神楽小学校体育館で盛大に開催されました。分村以来の大行事として春から準備が進められ、秋晴れの空のもと、村内外から多くの出席者が参列し、開拓以来の歴史をしのぶとともに将来の発展を誓い合いました。

しかし、その3年後には大正2年以来といわれる大冷害による凶作が北海道全域を襲いました。東神楽村でも食料や種もみのない農家が続出し、役場や農協など各機関は、農作物の出荷対策や農家金融対策、冷害克服生活改善運動などについての相談所を設け、農村再生に努力しました。

このとき政府から新農村漁村建設総合対策要綱が発表され、昭和32年には東神楽村がその指定町村となり、村ではただちに『東神楽地域農村復興協議会』を発足し、5ヵ年計画書を取りまとめるほか、希望を失わずに力を合わせて試練を乗り越えてきた村の人々の手によって、現在も東神楽の基幹産業として農業が力強く根付き、発展しています。

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旭川空港の完成

旭川空港が東神楽に建設されるきっかけとなったのは、昭和36年1月。立地条件・気象条件などが好ましいことから、柏木ヶ丘付近を旭川空港建設の予定地としたいという申し入れが旭川市から東神楽村にありました。村ではさっそく村議会にかけ満場一致で誘致促進を決定しました。それ以降は連日にわたり村と旭川市が事務連絡を重ね、空港予定地の資料作成、地主の実態調査、買収方法などが協議されました。空港予定地の変更や用地買収などで問題が続発しましたが、昭和37年に着工した旭川空港建設工事は、村と旭川市の関係者の尽力で、昭和39年春から本格的な工事が開始されていきました。

また、旭川空港の建設が進む昭和39年1月、東神楽村商工会から町政施行の要望書が村長に提出されました。当時の東神楽村は産業の近代化や生活環境の整備などによって日一日を成長を続けており、空港の建設に伴って住民の間からも町制への声が日を追って大きくなりました。昭和40年、村では上川支庁長に正式に申請し、10月には道議会本会議に提案され、村民待望の町制施行が決定しました。昭和41年1月1日をもって町制が施行され、ここに晴れて『東神楽町』が誕生しました。奇しくもこの年の春には道北の空の玄関として待望久しい旭川空港が誕生することとなりました。

旭川空港の開港式は昭和41年6月30日に旭川市及び東神楽町、運輸省航空局などの関係者や来賓が参列し開催され、翌月の7月1日には開港第一便が発着しました。同時にこの日、東神楽町の商店街では紅白の幕が張り巡らされ、家々では日の丸の旗が掲げられたほか、祝賀アーチや記念塔も各所に設けられる中、町制施行の記念式典が総合体育館で盛大に開催され、町中が二重の喜びで満たされていました。

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花のまち東神楽としての第一歩

また、町制施行のこの年は東神楽町が『花のまち』として貴重な第一歩を歩み出した年でもあります。町が推進する新生活運動の主要事項として『花いっぱい運動』が取り上げられ、現在の全国的に知名度の高い『花のまち・東神楽町』に成長。公民館や婦人会が熱心に美しい花壇づくりを進めた結果、昭和42年に「美しい町づくり全国コンクール」で中央婦人会が優良地区表彰を受賞したほか、昭和43年には生活環境を美しくする全町運動を推進し、昭和44年には「花のある職場コンクール」で役場互助会が内閣総理大臣賞を受賞しました。このころから『花のまち』として東神楽町は全国的に知られるようになり、町づくりの参考にと見学に訪れる団体が相次ぎました。

昭和51年には町土地開発公社により待望の工業団地の造成・分譲が開始されました。積極的な企業誘致を進める中、旭川空港の所在地であることや農村地帯に囲まれた環境のよさなどの面からも注目を集め、東神楽の工業の拠点となっていきました。昭和57年には、旭川空港に長年待たれていたジェット機がついに就航し、このことによって大量の農産物の空輸が可能となったほか、工業団地にとっても都市圏へのアクセスが容易になるなど、東神楽の経済・産業に大きなメリットをもたらしました。

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100年そして未来へ

平成元年には、旭川市の南東部に隣接する東聖地区が「ひじり野団地」として造成され始め、大雪山連峰と美しい田園地帯を眺める風光明媚な地域には数多くの家々が軒をつらねる住宅街が誕生しました。これに伴って町の人口も増え、平成5年には7000人を突破し、過疎化に悩む道内の市町村にあっては画期的な出来事でした。こうした発展が続く中、平成5年に開基100年の記念すべき年を迎えました。1月1日の新年恒例会をはじめ、NHKのど自慢や100回戦ソフトボール大会、開基100年記念式典などのほか、各地区・団体で協賛事業が開催され、世紀を迎えた東神楽を町民総出で盛り上げ、東神楽を築いた先人への感謝と新たな未来への出発をともに祝いました。

その後も確実に発展していく東神楽町。延長2500メートルの新滑走路と平行誘導路などを備えた旭川空港の拡張整備事業や、『北町団地』や『第2次ひじり野団地』の宅地開発などのハード面ばかりではなく、平成12年4月からスタートした『介護保険制度』などの福祉サービスといったソフト面にも力を注いでます。また、平成13年にはカナダで開催された『インターナショナル・エクスチェンジ』に日本代表として参加し、東神楽町の花のまちづくりを全世界に発信するなど、国際的な交流も進め、広い視野で次の時代を見つめています。

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